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組合の歩み

組合の変遷に見る100年

日本漆工「会津漆器」昭和59年発行 『会津漆器発展のあゆみ』より抜粋

明治編(−八六八年〜)

会津漆器業が産地としての体制の基盤を築いたのは、すでに藩政期のことであり、幕末ともなればその構造は確固不動とも思われる形状と内実を備えていた。その体制上の特質は、ひとことでいうなれば、当時きわめて高度な分業組織に立脚していたといえよう。

明治維新に際し、戊辰戦役の戦禍は漆器業をも壊滅状態に陥れた。会津漆器業の戦後復興は、先にみた藩政期の体制を前提として行われ、その指導力は、殆ど旧株仲間の有力商人によって発揮された。 まず、明治二年、商人自身が商道復活の大綱を評議し、町検断から出された復興案には、当局宛融資陳情の趣が盛りこまれている。それによると、町家三分の一にもわたって罹災した最重要産業たる漆器業復興のため、原材料の購入費および生産諸用具など生産設備金一万四千両を、半分は無利子十ヵ年賦、残り半分は三十両歩利付五ヵ年賦返還の条件で借用したい、というものであった。

また、同二年八月、組頭連名の生産方役所宛の陳情書にも、当時現業復帰者七十名、一人当たり二十両、百人分二千両の道具代を借用したいという嘆願書もみられ、トップクラスの問屋三者からの同じような政府宛融資陳情によって、三十両一歩の利子で六千両の資金貸与を受けた。

漆器業の壊滅的危機を救ったのは、明らかに大手問屋筋の努力であった。熱心な政府宛陳情作戦と政府の殖産興業策とのタイアップによる生産復興の過程を通して、結果的には産地体制内における問屋層の経済的社会的地位の補強と確立が実現した。

当時、職人別帳にみる漆器職人数は、塗職百七十二戸八百十四人、惣輪師五十二戸二百二人、蒔絵師八十戸三百人で、名実ともに大産地の陣容を誇れる規模であった。

明治三年、株仲間は解散し、塗問屋、漆問屋制となり、塗店組合を結成した。高瀬喜左衛門、鈴木利兵衛、菊地儀助の三氏が組織化したものであった。

明治十七年、農商務省組合準則にもとづく若松漆器商組合の結成がなされた。新旧問屋層の興廃による異動の上、同二十七年には若松漆器業組合が設立されている。 それは、漆器商、漆商、丸物塗師、板物塗師、木地師、蒔絵師の分業組織を部制としてもつ連合組合であった。

さらに、同三十三年の重要物産業組合法施行に伴い、若松漆器同業組合として右の組合を改組したのは同三十四年で、木地師組合の分化によって、ここにその後の七部制の組合構造の原型ができ上がった。 当時の体制化された分業機構は、下記にに示す通りである。

【丸物】 木地師 中通師 下地職 塗 師
蒔絵師 問 屋
【板物】 惣輪師 下地職 塗 師

大正編(一九一二年〜)

製品工程の機械化や、漆工技法の高級化などの技術上の発明発見があいつぎ、産地基盤はいよいよ強化されていった。

そして、大正末期までには、製造戸数五百五十戸、職工総数二千名を超える規模となり、戦前の昭和十一年次における漆器関係業者は戸数にして七百六十四戸、従業者約三千名と称される成長ぶりを示し、その偉容は全国的にも漆工大産地のひとつと日日されるにふさわしいものとなった。

大正初期の会津漆器は、多品種と大衆向きの製品特性と、販売専業の商人問屋中心の体制とは、産地元方の会津が交通上の利点に恵まれたこともさることながら、全図的な鉄道網の拡張と運輸条件の整備が進められるにつれて、販路は全国に及ばぎるはなしというほど、会津漆器の消費地開拓に有利に働いたのである。

そして、藩政期以来の江戸市場に代表される大都市生活の膨張と、大正−昭和初期におけるデパ ートの出現と普及による、今日のいわゆる大衆消費的傾向はともに会津漆器の産地的特徴に見事に適合して、絶大な需要喚起の根源となった。

昭和編(一九二六年〜)

大衆漆器量産の産地として当時、紀州黒江があり、彼我の市場競争は激烈をきわめていた。漆工技術の改良による品質、デザインの向上が、勝者の栄冠を獲得する決め手であった。

大正末期−昭和初期、漆器同業組合と指物業組合連名で、県立漆器木工試験場設立の請願が出された。これは、販路獲得と市場拡大に血眼になっていた業界の、結集した意見と熱意の表明でもあった。

昭和三年、市の補助と組合の負担によって、漆器木工指導所は関所した。同五年、県立工業試験場会津分場、同八年会津工業試験場と、改組改称を経ながら、試験研究、試作施設を増強し、漆器製作上の技術、意匠、図案などの改善と開発に指導的な役割を果たしてきた。

同試験場は漆器の工芸ならびに産業の研究のメッカとなり、木材乾燥、板物加工、挽き物機械ロクロ、吹き付け塗装、渦巻加飾など、一連の機械化や新原材料の発掘及び新種の試作などが、ここを中心に展開され、会津漆器の多品種にして量産の先進的態勢の基礎となったのである。

しかしながら、好景気による漆器業の盛況も、昭和三年の御大典時をピークとして急転直下、世界的な大恐慌の嵐は会津漆器の上にも荒れ狂った。問屋の零落と職人の窮乏は目に余り、借金による休業と失業による生活難が精神病者を激増させるほどの惨状を呈した。漆器職人一千三百人が、賃金の引き下げと解雇首切りに反対して、ビラ張りとデモで窮状を訴え叫んだのも、このころのことであった。

不況から脱出して景気回復に向かったのは、満州事変を契機とする昭和六年ごろからで、同十二年、十三年が戦前の生産増強と体制安定の絶頂期、平和産業の爛熟期であった。

しかし、この時点でもすでに、しのび寄る戦時色はしだいに濃厚となり、同十二年に始まる日中事変は、平和産業たる漆器業に対しても、拡大して行く戦局とともに、戦争の影響を経済統制の仕組みを通じて確実にかつ決定的に与え始めた。

この間、平和産業戦力化のための体制改組が国策によって推進されていった。昭和十四年、政府の工業組合結成への積極的政策に基づき、丸物塗、丸物木地、板物塗、板物木地、蒔絵の職種別五工業組合が設立された。

昭和十六年十二月八日に始まった大平洋戦争への突入が、産業の戦時体制を強化させたことはいうまでもない。戦時統制と企業整備を通じて、漆器業の軍需生産化の傾斜は急角度を示すようになった。 勲章箱、軍刀外装、軍用食器、弾丸サックから木製飛行機、木製プロペラにいたるまで、業界の再編成と企業の合同を敢行して、戦力増強のために漆器業の総力をあげたのだった。

同十六年、五工業組合連合会が結成され、国の生産者優先主義を後ろ楯とし、商部販売業者の焦燥を尻目に製造業者の優位が、すくなくとも形式的には決定的となる。統制経済下、資材配給機関は当然工業組合であり、大勢に抵抗しても勝目のない商業組合は、同十六年六月、工業組合連合会と協議のうえ、会津漆器統制協議会の協定によって工業組合から製品を共同購入することになった。

同十九年の商工組合法にょって工業組合は解散し、会津漆器統制組合に商工一体化しても、単なる統制団体として形骸化していたにすぎなかった。

商工省物価局は、物価統制令によって漆器の公定価格形成を実施、国民生活必需品のうち蓋なし椀を第一番に取り上げた。

自由経済時代には、各産地は形、塗り技法など気まかせに生産していたものである。したがって、価格もまちまちであった。それを、塗り仕上げ法規格に準じ、特級から七級までの枠内に級別で定めて価格を決定し、公定価格証紙の発行を協同組合に於いて実施させた。

しかしながら、昭和十八年、十九年と戦争の激化にともない、老若男女を問わず漆器産業に従事する者は、ある者は軍隊へ入隊し、ある者は軍需産業へと徴用され、残って漆器産業に従事する者はわずかになってしまった。

戦後編(一九四六年〜)

第二次世界大戦後、経済民主化を目指すGHQ指令にもとづく昭和二十二年の商工業協同組合法下、会津漆器商工業協同組合が結成され、混迷と沈滞の業界を再編成し、生産再開の中心となった。

物資不足のなかで復旧再建に血眼の国民生活からの需要は、戦争直後の一時的活況を呈した。しかし、継続したインフレと不況は、会津漆器業の復興を著しく困難にした。国民は食糧確保優先で、漆器界は不況のどん底にあえいでいた。

税は、戦後種々議論を呼び、漆器業にも波及した。漆器業が、製造販売の商工業として特異な性格を担っているだけに、税の生産者負担の原則をめぐつて協同組合の指導層たる商業部門は二つの対立意見で分裂した。

昭和二十四年七月、会津漆器卸商業協同組合の分派独立、同年九月、先の会津漆器商工業協同組合が解散された。しかしながら、一年後には両者 の協調が復元され、会津漆器商業協同組合と改組した。 

昭和二十六年には、業種別組合である会津漆器工業協同組合、会津漆器生産協同組合、会津漆器加飾協同組合、会津漆器板物木地協同組合、会津漆器丸物木工協同組合、会津漆器商業協同組合、(昭和二十五年設立) の六組合によって、会津漆器協同組合連合会が成立するにいたった。

昭和二十五年ごろまでに、わが国の諸産業が戦前水準に生産復興を遂げるなかで、会津漆器業の立ち直りは、業者数の増加に比例した生産高を示すことができず、戦前の昭和十年に比較しても六割前後に下落していたといわれ、産地振興の積極策が求められた。このような生産弱体化のなかで戦後の白眉は、昭和二十四年誕生のマルニ工芸漆器製作所であろう

。 昭和二十七年、会津漆器協同組合連合会では、組合事業として、会津若松市より五百万円の銀行預託を受け三千万円の融資枠を以って、取引による受取手形割引融資事業を実施した。(昭和五十八年現在、会津若松市銀行預託金三千万円、融資枠一億五千万円、月三回手形割引融資審査を行っている)

これまで永い間伝統工芸、固有工業、在来産業などと呼称されてきた漆器業が、戦後大きく転換する契機となったのは、周知のように技術革新の落とし子、カシュー塗料とプラスチック素地による体質変革であろう。

昭和三十三年五月、長崎において中国国旗侮辱事件に発する日中貿易の途絶は、決定的な漆不足をきたして、全国漆器産地を死活の境に追いこんだ。この間に、代用漆としての化学塗料の使用が本格的となり、海南を先鋒として、会津、山中など大衆漆器産地に崩れ込み、スプレーによる塗料吹き付けの可能性は、量産向き塗装材として歓迎された。

こうして、プラスチック素地にカシュ−塗料を吹き付けた代用漆器が、在来の会津塗に八割方肩替わりをして市場へ流れていくことになったのである。漆器の効用を装飾品と実用品とに二分して軽重を論ずる意見には、一概に耳をかせないが、伝統的な木製漆器の主流を、台所用品、食器、家具におく今日の生活様式のなかで、プラスチック用器の食い込みは必至であったといわぎるをえない。

昭和二十五年から同三十三年までの九カ年に、全漆器製品の伸びが三・五倍であるのに比べ、合成樹脂製食器のそれは十五倍で、両者の隔りは甚だしい。もちろん、後者は塗り物ではなく、主要生産地は東京、大阪、愛知などの大都市である。

技術革新と消費革命の新時代を迎えて、日本全土に産業の再編成が進められているなかで、多品種少量生産という伝統的な生産組織を、近代的な機械化による量産体制へ移行させるように望む傾向は不可避であった。

ちなみに、会津漆器業の企業規模を見ると、従業員を雇用せず、家族労働力のみに依存する事業所が三五・八%あり、逆に雇用従業員を十一人以上有する企業は、一〇・五%に過ぎず、全体としてみればきわめて零細な組織、規模であった。

そればかりか、漆器の需要動向や漆器そのものの商品特性からいって、工芸的要素を重視し、伝統技術によって製品特化を目指すことこそ、地方における伝統産業が生きうる唯一の道である、とする説さえあったのである。

昭和三十五年、プラスチック漆器全盛に伴って、会津漆器吹付塗装業協同組合が設立、会津漆器協同組合連合会の傘下に入った。 昭和三十六年には、プラスチック素地製造業が合い集い、会津合成樹脂工業協同組合を設立、同じく会津漆器協同組合連合合の傘下に入った。これで会津漆器協同組合連合会は、六組合から八組合によって構成されることになった。

昭和四十年十二月、長い間″悪税”として苦しめられてきた漆器の物品税が全面廃止と決定され、漆器業界に一大朗報をもたらした。これは、本県二区選出の衆議院議員、菅家喜六氏が国会内で、物品税の菅家か、菅家の物品税かといわれるほど、漆器業界の先覚者と共に長い間物品税全廃運動に死力をもって展開した賜である。

昭和四十一年八月、主婦連により、食卓用プラスチック漆器椀から人体に有害なホルムアルデヒドが試験の結果検出され、これを大々的に報道機関が取り上げ、ようやく軌道に乗ったプラスチック漆器だったが、大きな打撃を受けたのである。

会津漆器業界も大きな不安と打撃を被り、その対策に組合関係者はもちろんのこと、業者自らも死力を尽、して塗料の改善、乾燥炉の改良と、日夜研究を重ねていった。その結果、会津漆器の″安かろう悪かろう″イメージの脱皮を図り、プラスチック漆器が高級化され販売されるようになった。

昭和四十年代半ばを過ぎ、地方における中小企業一般にみられる若年労働力の不足は、漆器業とて例外ではなかった。ことに、高度の熟練技能を有する後継者の育成は至難の業であってみれば、漆器業が歩まねばならぬ道は、矛盾と障害に満ちていた。

会津漆器技術後継者養成協議会

昭和四十六年、会津漆器協同組合連合合は、後継者不足を打開するために、会津若松市、県工業試験場、業界及び関係行政機関の参加を得て、「会津漆器技術後継者養成協議会」を設立して、福島県会津若松工業試験場を研修場所として、二年間(週三日間)の研修を実施しはじめた。

<各科専門技術教習のコース>
塗装科= 本科一年、 普通学科、基本実技を習得。
研究科一年、 次の各科に分かれて専門学科、応用実技を習得させる。
(1) 丸塗料=汁椀、吸椀、杯、花瓶などの丸物漆塗りの伝統技術を習得。
(2) 板塗料=重箱、硯箱、膳、箸箱などの板物塗装の伝統技術を習得。
加飾科= 本科一年、 普通学科、基本実技を習得。
研究科一年、 金、銀、青貝などを使用する伝統蒔絵技術を習得。
年度別・業種別研修人員
年度 期生 加飾 木工
46 1 9人  人  人 9 人
47 2 6 4   10
48 3 5 4   9
49 4 7 3   10
50 5 4 1   5
51 6 4 4 1 9
52 7 3 1 1 5
53 8   5   5
54 9 4 l   5
55 10 5 4   9
56 11 5 2   7
57 12 3 2   5
58 13 2 3   5
  55 31 2 88
 

経済産業大臣指定「伝統的工芸品」に

昭和四十七年六月、通商産業省告示により、漆器、家庭用品品質表示法が通用され、会津漆器協同組合連合会は、全組合員の品質表示番号取得のため、日本漆器協同組合連合会を通じ、手続きを完了した。 昭和四十九年五月、議員立法により、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が制定。

昭和五十年五月、会津塗が同法の指定を受け、振興事業を実施。

<伝統的工芸品産業の振興事業>

(イ) 従事者、後継者の確保及び育成並びに従事者の研修に関する事業

(ロ) 技術または技法の継承及び改善、その他品質の維持及び改善に関する事業

(ハ) 原材料の確保及び原材料についての研究に関する事業

(ニ) 需要の開拓に関する事業

(ホ) 作業場、その他作業環境の改善に関する事業

(ヘ) 原材料の共同購入、製品の共同販売、その他事業の共同化に関する事業

(ト) 品質の表示、消費者への適正な情報の提供などに関する事業

(チ) 老齢化である従事者、技術に熟練した従事者、その他徒事者の福利厚生に関する事業

(リ) その他伝統的工芸品産業の振興を図るために必要な事業を実施

昭和五十三年、福島県伝統産業会館建設補助事業申請

福島県内の伝統的工芸品産業は、会津塗、大堀相馬焼、会津本郷焼、桐下駄、伝統こけし、張子、絵ローソクなど数多く存在しており、それらは長い歴史のなかで民衆にはぐくまれ、受け継がれてきたものである。

このようななかで、県内の伝統的工芸品も同法の趣旨に基づいて産地指定を受けたのを契機として、福島県内の伝統的工芸品産業振興のため会館建設の気運が高まった。 これにより、伝統的技術、技法の継承、維持向上、新分野への製品の開発、情報資料の収集管理などを通じ伝統的工芸品の品盾只の向上、技術、技法の研修、後継者の育成、工芸品の展示宣伝などが図られるとともに手工芸品の価値が再認識され、福島県内の伝統的工芸品産業の健全な育成及び振興に与える効果が大きいと考えられた。

このような総合的機能をもった伝統産業会館の建設を同年八月に工事を着手、昭和五十四年三月、福島県伝統産業会館として建設工事を完了した。

伝統産業会館の建設

●福島県伝統産業会館(所在地、会津若松市大町一丁目七番三号)

建設主体・社団法人福島県伝統産業振興協会、会津漆器協同組合連合合。

鉄筋コンクリ−ト三階建て、建築面積二七〇、三八六u、延面積八六五、〇七四u。

一階・売店、事務室、主に会津漆器(協連)の施設。

二階・研修室(主に実技)、資料閲覧呈。

三階・研修室(主に謙譲用大水ール)。

二、三階は、(社)福島県伝統産業振興協会の施設。

産地中小企業対策臨時措置法(産地法)の指定

昭和五十五年四月、産地中小企業対策臨時措置法(産地法)の指定を受け、振興事業を実施。

一、新商品開発能力育成重丁業 実施テーマ 「新規漆器製品の開発」

(1)漆器デザイン公募展の開催

(2)公募展の入賞作品の試作化

(3)デザイン関係図書の収集

二、需要開拓事業

(1)大会津漆器展の開催

(2)会津漆器PR作戦(野立看板の設置)

(3)海外市場の情報の収集('83フランクフルトメッセに参加)

三、人材養成事業(下地工の養成夜間研修)

丸物下地塗り一〇名 板物下地塗り一〇名

しかし、ここまできた数年間はまったく苦労の連続で、ここまできたのが夢のようである。これからは順調な歩みとしたい。組合員のご協力に感謝する次第である。