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会津漆器史略年表

和暦 西暦 事項
縄文終末 前500 荒屋敷遺跡 (大沼郡三島町) より木製器、弓、漆製品、かご類出土する。時代は縄文時代の終末期 (前五〇〇) から弥生式時代前期(前一〇〇) の遺物と考えられる。(『縄文の四季』福島県博)
古墳後期 大塚山前方後円噴(会津若松市)より 靱、櫛など出土する。(『会津若松史』別巻)
欽明 一 540 梁国の僧青岩、高寺山に草庵を結んで仏を拝す。(『会津温故拾要抄巻四)
欽明一九 557 高田伊佐須美神社建てられる。
斉明 四 658 蓮空上人旧庵を改めて石塔山恵隆寺を建立、観音をもって本尊とする。(『河沼郡案内』)
和鋼年間 〜715 磐椅神社建てられる。
天平 一 729 羽黒山東光寺が黒川 (会津若松市) の東、妙見ケ森に建てられる。
大同 二 807 南都の僧徳一により慧日寺・勝常寺・円蔵寺・如法寺等建てられる。
勝常寺に薬師三尊 (国重文) 安置。
800〜850 徳一、宇内薬師堂を創建したと伝えられる。木造薬師三尊(国重文)安置。
弘仁 二 811 黒川 (会津若松市) に蚕養神社が建てられる。
嘉祥 一 843 大沼郡高田に龍興寺建てられる。
万寿 三 1026 猪苗代小平潟に天満神社建てられる。
天書 五 1057 塔寺村に石清水八幡神社建てられる。
広徳 二 1087 新宮 (喜多方市) に熊野神社建てられる。
大治 五 1130 黒川に金剛寺建てられる。
1200頃 塔寺恵隆寺に立木観音(木造千手観音=国重文)祀られる。
安貞 一 1227 耶麻郡上三宮に取成寺建てられる。
建治 三 1277 一遍上人、黒川に東明寺建立。
弘安 二 1279 中田に弘安寺建てられる。
弘安一〇 1287 大円禅師、黒川に輿徳寺建立。
永仁 二 1294 葦名盛宗(五代)黒川に諏方神社建立。
応長 一 1311 長沼氏、梁取成法寺に木造聖観音坐像(県重文)寄進。
正和 三 1314 雀林法用寺の厨子(国重文)造られる。
貞和 五 1343 塔寺八幡神社長帳の記載始まる。
文和 一 1352 小田に宝積寺建てられる。
康応 一 1379 黒川で十日市始まる。(『産業史』)
1400年ごろ 伊佐須美神社木造狛犬(漆塗寄木造り=県重文)造られる。
熟塩示現寺蔵、ならびに県立博物館蔵の鎌倉彫笈(共に国重文)この頃造られる。
八角神社の朱塗瓶子(市指定)この頃造られる。
宝徳年間 〜52 葦名盛信(十一代)領内農民に漆樹を頒布して植栽させその繁植を奨励する。(『漆器雑考』)
文明年間 〜87 耶麻郡桧木谷地に木地挽き集落七十余戸あり。(『会津桧原軍物』)
廷徳 二 1490 法用寺厨子の漆塗替え。(年紀銘)
文亀 三 1503 伊佐須美神社炎上、宝器・記録類焼失する。
文亀年間  〜04 葦名盛高(十三代)轆轤挽木地に赤黒漆を施し、椀、盆、鉢などを製造する。
永正十二 1515 西会津真福寺蔵黒漆花瓶(町指定)の作例。
大永 六 1526 伊佐須美神社神輿(国重文)の作例。
大永 八 1528 自在院経櫃銘。
天文 三 1534 塔寺八幡宮御宝前の御戸を塗る。(『塔寺八幡宮長帳』)
天文十七 1548 塔寺八幡宮の柱を塗る。(『塔寺八幡宮長帳』)
天文年間 宇都宮豪商庭材、会津より蝋を買付る。(『中世商業史の研究』)
永禄 七 1564 黒川極楽寺創建上人浄顕、祖佐原義連坐像・父葦名盛高坐像を安置する。(『新編会津風土記』)
永禄一二 1569 塔寺八幡宮の柱に金を塗る。(『塔寺八幡宮長帳』)
天正 二 1574 上杉氏、越後蝋燭三百挺を家康に献ず。(『中世商業史の研究』)
天正 四 1576 葦名盛隆、安土城の織田信長に駿馬三頭・蝋燭千挺を献ず。
天正 八 1580 葦名盛氏逝去。宗英寺に盛氏坐像(国重文)安置される。願主宥繁。
天正一八 1590 四月、伊達政宗白金屋木左衛門に朱印状を下して漆樹の保護をはかる。(伊達政宗卿伝記史料小熊家文書)
蒲生氏郷、前住地近江愛智郡小椋庄より木地頭佐藤和泉守ほか六名を連れ来り、七日町に屋敷を与え、慶山で木地を挽かせる。塗師は同郡畠村から古川和泉守を頭に四十六人を連れ来り、若松・小荒井・喜多方に分住させ、大町東北隅に間口六間、奥行十五間総二階建、俗に塗大屋敷と称された伝習所を建立し、日野椀の製法を伝播させる。
蒲生氏郷、父賢秀の菩提寺恵倫寺を創建、賢秀坐像(市指定)を安置する。
天正年間 〜92 太閤検地、漆木に年貢賦課。(『会津鑑』巻五)
文禄 三 1594 蒲生将監ら秀吉へ蝋燭二百抵進物。(『日野町志』)
若松屋敷町にて蒲生氏郷の母堂没す。その屋敷井戸は底より石を積 み、その石は布によって包まれ黒漆が塗られていた。(『新編会津風 土記』)
文禄 四 1595 蝋・漆御年貢銭蔵納とし給人知行権を制限する。
慶長 二 1597 楽市・楽座令に抱らず、蝋役など特産物には引続き座の存在を認め る。(「掟条々」浅野長吉掟書・簗田文書)
慶長 三 1598 上杉景勝以来の 「歴代古案」にしたがい蝋漆などの小物成は蔵納とする。(『歴代古案上杉家記』)
太閤検地、漆木に年貢が賦課される。
慶長 四 1599 領内会津四郡の役漆木十九万八千六百二十四本七分入厘。
慶長 六 1601 蒲生秀行、会津再封に際し漆工職人を伴い、切米・扶持米を与えて
産業の振興をはかる。
鞘師 大 竹 清兵衛   七人扶持
〃  大河原   某   七人扶持
塗師      源四郎    六人扶持
〃 池 田 助 六   三人扶持
塗屋 吉川 六左衛門  四人十石
塗師 野 出 市 老   十 石
〃 熊取三郎右衛門  十 石
塗屋   四郎左衛門    三人三石  (『蒲生家分限帳』)
蝋漆自由売買禁止令出す。
慶長 九 1604 木造融通寺扁額 (県重文) の作例。 
元和 二 1616 蟻漆自由売買禁止令出す
元和 三 1617 自在院経櫃の内箱銘。
元和 六 1620 漆木増加分の貢納を停止。(『新編会津風土記』)
元和 八 1622 御年貢蝋蟻皆済残り分の買上げによるわき売制禁。(『簗田文書』)
元和年間 〜24 店舗商人仲間みられる。 
寛永年間 〜44 加藤時代漆器生産の水準が高まり江戸に漆器を移出される。 買上制厳しく役木一本につき二十一匁、年貢貢蝋の外一両に入〆目値で、入匁は小買蝋、一両に二十六〆目六盲六十六匁値で十四匁は大買蝋として一斉に買上げ、一本につき四十三匁定役となる。(『会津藩蝋漆保護秘録』)
海東五兵衛なる塗師は大和町に間口四十間、奥行二十間の塗装工場を有し、製造した漆器の殆んどを江戸に移出する。
寛永二〇 1643 保科正之会津に入封し、漆器の産業体制化をはかる。塗師二百人余。 (『塗師頭記録』)  
寛永二一 1644 在郷宛触書に漆机き定納・御年貢蝋・小買蝋・相大買蝋・相場蝋の蝋絞り前々通りのこと。(『家世実紀』巻四)
正保 二 1647 塗師仲間みられる。郷村に釜本定める。(『家世実紀』巻五)
慶安 二 1649 無許可伐採禁止の御七本の第一に漆木をあげ漆木の保護にあたる。 (『会津事始』「七木八草四壁竹本御定法事」)
渋地頭と呼称する塗師親方を漆器奉行山田右膳の監督の下に統轄し、技術優秀にして篤実なる者を選抜して合力米を給し、漆液の検見役を選定して粗製濫造の防止品質向上を奨励する。(『家世実紀』巻之九十一、巻宙二十入)
承応 一 1652 塗師数百四十六戸。
万治 三 1660  最初の検約令に梨地蒔絵の塗物など嫁取りに禁ずる。(『家世実紀』巻之二十)
御抱え蒔絵師による蒔絵制作おこなわれ始める。
寛文 五 1665 漆液統制強化。
寛文 六 1666 『新編会津風土記』完成。
塗師百九十戸、蒔絵師一戸、板物師十三戸、木地挽三戸、青貝師三戸、鞘師二十四戸。(簗田文書『町中之由来』)
民営の漆器業が独立独行の実力を身につけて城下産業の最前線で活躍しはじめる。
蒔絵師は領主の保護のもとに会津塗への蒔絵の定着をはかる。 
寛文 九 1669 鞘師二十三戸、塗師百九十戸、蒔絵師二戸、桧物師十一戸、表具師二戸、木地挽三戸、蝋燭屋十九戸、青貝師二戸。(『旧輯市央津陽覚書』)
寛文一二 1672 手工業者の町人化。(簗田文書『御用日記』)
延宝 一 1673 職人の士分扱制限。(簗田文書『御用日記』)
延宝 三 1675 土津神社奉納神剣 (県重文) 刀装作例。
延宝 五 1677 徒弟独立の仕方明文化。(簗田文書『御用日記』) 
延宝 六 1678 七年にかけて蝋の仲間・買集め商人見える。(『家世実紀』巻之五十二、巻之五十三)
天和 二 1682 この頃より木地師定着の傾向 (川入の例)。
貞享 一 1684 領内塗師の仙台行禁止。
貞享 二 1685 蝋燭仲間あり。役漆木の管理と貢納・買上蝋漆の取立など郷頭の権限限定。(宮城文書『郷頭勤方之事』)
漆木地、漆紙、蝋など御法度の留物制定される。  
貞享年間  〜88 この頃漆液不足の傾向あらわれる。
元禄 五 1692    磐椅神社蔵朱塗金地高杯作例。
元禄 八   1695 磐椅神社蔵朱塗瓶子作例。
元禄一〇 1697 度々隠蝋出廻る。
塗物問屋一之町忠三郎の名みえる。(簗田文書『御用日記』)
元禄一三 1700 田中正玄夫人没、滝沢妙国寺に埋葬される。黒塗椀類副葬品(市指定)。
柿渋仲買みえる。(築田文書『御用日記』)
元禄年間 〜04 十七世紀末より漆木飛躍的に増加。(『家世実紀』)
藩財政の窮乏始まる。
宝永 二 1705 木地師、穀留への訴え。(築田文書)
宝永 五 1708 これより以前、既に木地問屋存在する。(『会津漆器雑考』)
宝永 七 1710 藩指定問屋、三之町直右衛門、原ノ町八郎兵衝、当麻中町半助に木地仲介申付らる。(築田文書)
正徳 四 1714 鶴ケ城稲荷蔵、稲荷大明神扁額(市指定)作例。
享保 四 1719 木地挽、塗師と木地直接売買。(築田文書『御用日記』)
享保 六 1721 蒔絵師、青貝師など九名が扶持米、切米等召上げられて町奉行支配に属する。(横山文書「従御公儀被傾中ケ間申合」)
享保 八 1723 江戸商人三河屋が江戸出塗問屋として江戸向会津漆器の独占販売を許可される。(築田文書『御用日記』)
享保 九 1724 御払蝋一手引受問屋に江戸商人山本吉兵衛。(『家世実紀』巻百十五)
享保二〇 1735 木地値上りする。
享保年間 〜36 青光・石黄など彩漆の発明。(明治三年「第三回内国博覧会説明書控」)
元文年間 〜40 隠蝋大量に出廻り、自由流通化、在方商業発展する。(築田文書『御用日記』)
寛保 一 1741 蝋燭掛と蝋燭役人の汚職。(『家世実紀』巻之百四十三)
延享  一 1744 享保二年よりの専売蝋収益金九千八百二十五両に達し、米金納分の倍近く凌ぐ。(『家世実紀』)
延享 二 1745 蝋燭仲間以外に新商人台頭する。
領外から移入される漆商人の旅漆宿が漆問屋として許可される。 (簗田文書『御用日記』)                          
延享 三 1746 領内原料漆では間にあわぬほど多量の漆器生産がなされ、漆器の移出が領内物産の王座を占める。
移出 塗物代 二万一千両
移入 漆 代  三千五百両
延享年間 〜48 北方 (喜多方) 漆器城下に出廻る。(築田文書『御用日記』)
寛延 一 1748 田中玄宰生れる。
宝暦 四 1754 塗師方へ木地直御認められる。(坂内文書『御用留書帳』)
宝暦 六 1756 『漆拵の秘伝』(渡邊明氏蔵)
宝暦一〇 1760 木地問屋「相休」まされる。
宝暦年問 〜64 漆液逼迫す。
明和 六 1769 漆蝋関係の諸役を統合して蝋漆木方とする。
天明 一 1781 出稼塗職禁止。(簗田文書『御用日記』)
妙国寺蔵黒塗三宝作例。
天明 二 1782 田中玄宰会津藩国家老となる。
天明 四 1784 消粉蒔絵大福帳木盃(市指定)の作例あり。
寛政 二 1790 木地売買は問屋を経由することとし、塗師を問屋の下に置く。(簗田文書『御用日記』)
寛政 三 1791 古屋昔陽、田中玄宰のすすめにより会津諸学校の師範となる。
寛政 四 1792 京都より招聘の工人により金粉・金箔の製法が伝授される。(『若松市史』)
寛政 五 1793 江戸中橋槙町に会津産物会所設立。町奉行に産業振興の専任官を置く。
寛政 七 1795 君ケ原金龍寺名で椀木地材乱伐禁止木地師願い出る。
寛政  八 1796 京都より職人を招き、懸りを置いて入門奨励する。(簗田文書『御用日記』)
寛政 九 1797 十月、はじめて国産方役場がおかれた。
寛政一〇 1798 上方より塗さび師を召抱え入門を奨励、町方の塗師中より役場精勤の者を選んで定塗師として雇入れる。(簗田文書『御用日記』)
寛政一二 1800  塗師、蒔絵師の仲間入りが定められる。木地師二百三十戸。(坂内文書『御用留書帳』)
寛政一三 1801 幕府の勘定奉行に請い長崎在留の支那・オランダ人と貿易を試みる。
寛政年間 〜01 漆木減少。蝋の定免制施行、免外蝋の買上げ方改めなどにも拘らず西南諸藩の櫨蝋進出に対抗しえず。
文化 二 1805 石巻市鳥屋神社奉納蒔絵絵馬(宮城県指定)作例。
文化 四 1807  塗職戸数三百四十戸。その分布大町三之町、四之町、馬場三、四、五之町、新町四ノ町、後町、紺屋町。(『若松総町屋敷一覧』)
田島組など南山地方に城下産物を背負売する者見付出さる。
株仲間の再編行わる。漆問屋、株仲間、黒目漆器問屋。(文化四年『風俗帳』)
文化 五 1808 八月、大老田中玄宰没す、六十一歳。遺言により小田山頂に葬らる。
文化 六 1809 四月、『新編会津風土記』(百二十巻)完成。
林家の螺鈿胴乱(市指定)の作例。
文化 七 1810 山奉行漆木役所を廃し、産物役所を置く。
文化 九 1812 大坂出漆物仲間。(簗田文書)
文化一二 1815 七月、『家世実紀』 (二百七十七巻) 完成。青光組揃椀の作例(箱書)。
文化一三 1816 松竹梅文漆絵(会津絵) 吸物椀作例(箱書)。
文化一四 1817 江戸出仲間。(簗田文書)
文政 七 1824 漆塗の溜銭廃す。(簗田文書)
文政 八 1825 銭屋五兵衛、塩と会津蝋を交易する。
文政一〇 1827 盆(市指定)の作例あり。
木地師二百三十戸、外に江洲渡来地人別約百戸。
文政一二 1829 黒塗入子曲物鉢、八角瓶(市指定)の作例。
文政一三 1830 鮫皮研出重箱(市指定)の作例。
地店仲間の田舎出塗物株。
文政年間 〜30 江戸金座の許を得て金粉、金箔の製造始める。
天保 七 1836 会津絵中央卓(市指定)の作例。
天保 八 1837 黒塗螺細盃台(市指定)の作例。
天保 九 1838 漆塗の溜銭復活する。(簗田文書)
商工業者に対する褒賞しきり。(簗田文書)
天保一〇 1839 琴比羅宮蔵、象に若松蒔絵奉納絵馬の作例あり。
天保年間 〜44 産物会所不振、他国産塗物におされる。高値粗悪の不評。(簗田文書「国産一件」)
無株商工業者増加する。(簗田文書『公用日記』)抜蝋多し。(簗田文書『公用日記』)
会津絵、花絵意匠極めて画期的な展開を見せて類例のない独特な会津絵完成する。(『会津漆器のあゆみ』)
弘化 二 1845 木地師二百六十戸に拡大する。
弘化年間 〜48 名工続出する。下級武士など塗職人化する。(『忠恭様御年譜』巻之十七)
嘉永 三 1850 過蝋代金分貸付による利子収取。(長嶺文書『御用留』)
嘉永年間 〜54 手当貸付により冥加金の増納はかる。株貸借盛んとなる。(簗田文書『公用日記』)
安政 一 1854 江戸大地震により不況。江戸出塗、地店塗、田舎出塗など大口融資を受ける。(簗田文書『公用日記』)
地塗物出荷取締役を決め、原料漆の職人小売などで冥加金増加を企てる。(簗田文書『公用日記』)
安政 三 1856 藩命で長崎へ漆器を輸送、市内商人菊地義助に担当させて長崎外国人との塗物貿易をはかる。(簗田文書『公用日記』)
地元商人鈴木勘右衛門、仲間掟を無視。(簗田文書『公用籍簿』)
塗物店惣代組頭より領外商人の職人直取引仰制の訴え。(簗田文『公用籍簿』)
安政 四 1857 役木に持主札をつけるなど漆木検見強化される。
安政 五 1858 蝋・漆需要多く高値。(長嶺文書)
五十嵐蔵、丸盆の作例。萩蒔絵吸物椀の作例。
文久 一 1861 漆採取制限を弛め、又余蝋「取集め任役」などにより農政安定を計る。(長嶺文書『御用達留録』)
元治 一 1864 七月、漆器、正阿弥の小道具、煙筒、酒以外の産物を他国に移出することを禁止。
明治 一 1868 戊辰の戦役で荒廃し、漆器職人は離散し遺滅状態となる。
滝沢妙国寺に松平容保遺品の作例。
明治 二 1869 若松県設置される。
大手問屋筋の努力により政府の融資を受けて生産の復興をはかる。塗職百七十二軒八百十四人、惣輪師五十二軒二百二人、蒔絵師八十軒三百人。但し休業中の者四分の三。(職人別帳』)
明治 三 1870 旧株仲間、上層商人を指導者として塗店組合結成。(簗田文書『諸商株式人別調帳』)
明治 五 1872 巴里万国博覧合に漆並に漆樹栽培書出品
明治一〇 1877 漆器会社設立され東京府下に分社を置き産地問屋として威信の回復をはかる。
明治一二 1879 若松盛業組合結成され輸出漆器販売をなす。組合の買上高の月別売上左記の通り。(十九店分)
三 月 四千六百七十三円八十八銭三厘
四 月 三千八百六十七円七十銭七厘
五 月 三千二宮四十円五十六銭五厘 
六 月 三千四十九円十五銭四厘
七 月 二千三百五十七円四十九銭七厘 
八 月 三千七百五十四円九十三銭
九 月  欠
十 月 千五十四円六十二銭 
十一月 千五百七十四円七十七銭
十二月 千六百五十二円七十八銭入厘
明治一四 1881 褒賞条令施行さる。
明治一五 1882 大手間屋による漆器引換場設置さる。