堀切家のリーダーシップ
堀切家の歴史抄

観光協会事務局に、堀切邸の内部を御覧になりたいという希望が寄せられています。飯坂の歴史の重要な一ページの場所ですが、残念なことに、公開されておりません。外側から、正門や石垣、巨大なけやきや藤の木をご覧になっていただけると、幸いです。ご了承下さい。

●16世紀●
1578年(天正6年)…現在の福井県から、梅山太郎左衛門治嘉(うめやまたろうざえもんはるよし)が飯坂に移住します。農民でした。当時の赤川は、現在の八幡、湯町、湯沢、十綱町の下手を流れ、しばしば氾濫しました。彼がリーダーとなり、赤川上流の流れを変えて、摺上川に流れ込むようにします。世間から功績が認められて、誰と言うこともなく「堀切」という姓で呼ばれるようになります。堀切初代です。

●17世紀●……堀切家は現在の土地に住んでいました。佐半家と西山家もありました。
1689年(元禄2年)…芭蕉が訪れた年に、赤川の中堤が改良され、飯坂町への飲用用水と中野への農業用水が引かれます。大正時代まで利用されました。

●18世紀●
1764年(明和元年)…白河藩から、「堀切」という姓を公式に許されます。江戸時代まで農民は名だけで、姓がありません。特別なことでした。袴(はかま)をはくことも許されます。
1767年(明和4年)…白河藩より、大庄屋格となることが許され、大地主となります。
1781年(天明4年)…困窮施し米800俵を838人の窮民へ提供しました。
1799年(寛政11年)…相馬藩からの借金返済の代わりに、100石取りの武士の位を得ました。江戸時代の大名は、特に参勤交代に過大な支出を必要とし、堀切家のような郷士からも借金しました。しかしお金では返済できずに、武士の位で返しました。堀切家には、このようにして、多くの藩から武士の位を授かりました。
1800年(寛政12年)…堀切家に泊まった白河藩主の松平定信が、千年前の京都に残る拾遺集に書かれた詠み人不詳の「あかずして別れし人のすみ里はさはこのみゆる山のあなたか」を飯坂のうただと確信します。さはこ、とは、「飯坂の碑(明治23年建立)」に「左波古和言 鯖湖相通」と記されてあるように、「大和民族の言葉である鯖湖は、(大和民族の言葉でない=飯坂の先住民族=アイヌ民族)の音声であるさはこ(訛って、さばこ、漢字を当てはめて左波古)と同じですよ」と想像されます。さらにさかのぼると、アイヌ語で「さ」とは「平ら」、「はこ」とは「谷」を意味したのではないかと考えられます。

●19世紀●
1826年(文政9年)…保原代官所、郷士、槍、御免。
1843年(天保14年)…保原代官所が勘定奉行格(かんじょうぼうこうかく)となります。
1848年(嘉永元年)…堀切治之が自費で、赤川前堰(まえぜき)を作ります。「一村善」の名を付けます。
1882年(嘉永5年)…赤子養育日当資金が支給されます。積立金千両の利足の、おそらくは10%の百両だと推測されます。
1863年(慶応2年)…信達騒動が起こり、18日の昼に、身元不明の約2,000人が堀切家に乱入します。(小作人長屋の屋根の上での戦い)
1865年(慶応5年)…保原代官次席。
明治初期……現在の正門が造られました。
1870年(明治3年)…そば金布与(30俵174人分)を困窮民へ。
1873年(明治6年)…伊達一と堀切家と鈴木文七の働きで、摺上橋が架かります。
1875年(明治8年)…摺上橋が流され、十綱橋が架けられます。
1880年(明治13年)…上飯坂村の村会がもたれます。村会の総代は、堀切良平でした。常泉寺の大火で32の家が焼失します。
1888年(明治21年)…4月5日。湯町から出火した火災は西風にあおられて、湯沢、十綱町に延焼し、178戸が灰になります。堀切良平は私財で、焼け跡の整備に奔走します。
  1、焼け跡の旧道を広げます。
  2、土地の高低をならし、古戸、東滝ノ町、湯沢の畑に新しい道を造ります。
  3、新町(しんちょう)(錦町、古戸町、旭町、鯖湖町、若葉町)を設置し、摺上川沿いの若葉町に遊郭を移転します。
また、「飯坂の碑」が八幡神社境内へ移転されます。
1895年(明治28年)…伊達一が死去します。

●20世紀●……堀切三兄弟……
長男:堀切善兵衛(ぜんべい)…1903年(明治36年)に慶応大学を卒業します。続いてアメリカのハーバード大学、さらにイギリスのオックスフォード大学に留学します。帰国して、慶応大学の財政学の教授となります。1912年(明治45年)に衆議院に初当選し、連続9回当選します。1929年(昭和4年)に、48歳で衆議院議長を務めます。1940年に(昭和15年9月)にイタリア大使となり、日独伊三国同盟に調印します。
次男:堀切善次郎(ぜんじろう)…東京市長(ワシントンの桜→ミズキの樹?)、内務大臣を務めます。
三男:内池久五郎(うちいけきゅうごろう)…衆議院議員を勤め、福島市の内池商店の社長となります。内池商店は味噌や醤油を商っていました。

※現在の堀切邸の家屋状態になったのは、明治末期か大正初期と推測されます。