飯坂の伝説と歴史
縄文時代
紀元前3000年頃……摺上川(すりかみがわ)の支流の小川(おがわ)が、飯坂温泉の南を流れています。小川と飯坂街道が交差する地点が月崎(つきざき)です。そこに縄文人が住んでいました。
大和時代
2世紀……日本武尊が東征のおり、「さはこ(アイヌ語)」の地の湯に入浴した、と伝承されています。
飛鳥時代
(6世紀……公式に、百済から仏教が伝来します)
6世紀
587年……天王山天王寺が創建されます(←天王寺寺伝)
7世紀
この頃……現在の福島県と宮城県は「みちのくの国」と呼ばれます。
660年……信夫郡(しのぶぐん)が設立されます。
奈良時代
8世紀
757〜764年……八幡寺が、舘山の中腹に創建され、舘山が開山されます。
762年……阿武隈川で洪水が起きます。
平安時代
8世紀…天皇により、養蚕が奨励されます(→飯坂での養蚕が始まる?→蚕糸試験場)
801年……坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷(アイヌ)を平定します。
(伝承)……波来薬師が建立されます(坂上田村麻呂による)。鳥居と「乙和の清水」が現存しています。
(伝承)……波来湯が開湯されます(坂上田村麻呂の兵の負傷を癒すため)
830年(天長7年)……智興(ちこう)という名の僧が、菩提寺(ぼていじ)を建てました。現在の西原廃寺(にしはらはいじ)がそれだと推測されています。人々は耕地を広げ、村をつくっていました。この地は、「信夫国(しのぶのくに)」と呼ばれました。「みちのくの国の内の信夫郡」と同意です。
※菩提寺(ぼていじ)とは、京都の朝廷への納税免除を条件に侵略を奨励して得られた土地を管理するため寺です。他に候補地としては、「徳山観音」と「こしまはま」が考えられます。
1051〜1062年……前九年の役(ぜんくねんのえき)……源頼義が、阿部氏を討ちます。
1083〜1087年……後三年の役(ごさんねんのえき)……源義家が、清原氏を討ちます。
1105年……中尊寺が、藤原清衡(ふじわらきよひら)により建立されます。
■■■↓大鳥城関係■■■
1050年頃……舘山中腹の八幡寺跡地から、白鳳瓦(福島市の真浄院・しんじょういんにある、と言われています)が出土しました。しかし、焼け跡は出土していません。信夫郡でも武士が台頭し、守護神として欲した神社が、八幡神社だと推測されます。が、八幡神社が舘山中腹の八幡寺の隣地へ建立された時代は不明です。
12世紀の城
1,天守閣や石垣やお濠はありません。
12世紀の城の種類
1、平城(ひらじろ)……平地に、堀と土塁(どるい)を巡らせました。
2,平山城(ひらやまじろ)……高台の平らな土地に築かれました。
3,山城(やまじろ)……高い山の頂部に築かれました。……大鳥城
12世紀の城の山城の特徴
……攻められにくいように、山を削る土木工事を行います。
1,人の活動や生活のための平らな場所を、平場(ひらば)、あるいは曲輪(くるわ)と呼び、堀や土塁で区切ります。
2,崖を断ち切って、切岸(きりぎし)とします。
3,攻め入られた場合に、狙いやすいような入口、つまり虎口(こぐち)を取り付けます。
12世紀の大鳥城の伝説
名の由来……城の建築時に守護神として、一羽の生きた鶴を城の中央に埋めました。【資料:信達一統志】
1142年……藤原基衡(もとひら)は、藤原師綱(のりつな)の検注に抗議して、争います。
※7世紀の大化改新の時代のまま、土地が管理されていました。しかし12世紀には日本の人口は1,000万人を越え、土地が足らなくなっていました。そこで大和朝廷は、「開拓地は開拓者のもの」として開拓を奨励します。合法的な「開拓・納税免除」だったにもかかわらず、「信夫郡の所有地が多すぎるから、課税する」ことを伝えるために、京都から課税のための測量をしに国使が派遣されます。納得のいかない藤原基衡の家来である佐藤末治(すえはる)は、大鳥城で会議を開き、佐藤家をまとめ、国使を追い払います。朝廷は圧力をかけます。末治は切腹し、測量は行われず、うやむやのうちに幕を閉じます。さらに、「天皇への反乱」故に、この事自体が公にはなかったこととされ、歴史上は記録が残されません。結果として、末治は命を賭けて土地(所)を守った鎌倉武士の譽と言い伝えられ、第2次世界大戦前の「一所懸命」、戦後の「一生懸命」という言葉は、この物語から発生したとも言われています。
1171年……仏教が広まり、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の救いを祈った人たちが、天王寺(てんのうじ)の頂上に、一切経(いっさいきょう)を書いた経筒(きょうつつ)を埋めて、経塚(きょうづか)を造りました。重要文化財の経筒は天王寺に保存されています。
1180年……源義経(よしつね)は、源頼朝(よりとも)の挙兵に応じて、出陣します。この時、大鳥城の佐藤継信と忠信の兄弟が、義経側で出陣し、「乙和の椿」に唱われる悲劇が始まります。
1185年……佐藤継信は、屋島の戦いで、36歳で戦士します。
1186年……佐藤忠信は、吉野山で、34歳で自刃します。
■■■↓大鳥城関係■■■
1187年(文治3年)……源義経と弁慶が大鳥城を通り、平泉へ落ちのびた、と伝えられています。医王寺に立ち寄り、弁慶はしょっていた笈(おい)【鍍金装笈(ときんそうおい)】を置いていったと言われています。福島県重要文化財に指定され、医王寺の宝物館に展示してあります。
※「笈」は、僧侶が背負い、仏像や勧進帳(寄付台帳)などを収納していました。「弁慶の笈」は、時代を下った室町時代のものとも推測されています。
●約500年後に、この笈を見て、松尾芭蕉は「笈も太刀も五月にかざれ紙幟(おいもたちもさつきにかざれかみのぼり)と詠みました。
1189年……源頼朝に攻め立てられます。
※以下の地名は現在も残っていますが、12世紀から阿武隈川の流れが激変していますので、場所の特定は困難です。
7月8日……石那坂(いしなざか)・阿津賀志山(あつかしやま)の戦いで、佐藤基治軍は源頼朝軍に敗れます。
8月8日、佐藤基治(もとはる)は、石那坂(いしなざか)で、中村智宗(ともむね)と戦い、76歳で戦死します。
8月10日、大鳥城の出城である「郷の目(ごうのめ)砦」と「杉妻砦」と「瀬上(せのうえ)砦」が陥落します。
8月11日、大木戸城が落城します。
8月13日、大鳥城が、西側から攻められて、落城します。
8月21日、平泉が陥落し、藤原氏は滅亡します。
●敗れた佐藤基治軍は赦されて、信夫庄(しのぶしょう)に帰った。【資料:吾妻鏡】
●敗れた佐藤氏の名は、後の古文書にも記されており、それによれば、1354年(文和2年)に伊勢に移住するまでは、信夫郡の飯坂に住んでいたと考えられています。南北朝時代に足利尊氏(あしかがたかうじ)に味方しますが、日の目をみなかったようです。
飯坂は廃墟となり、赤川が何度も氾濫しました。
1189年8月8日に、石那坂で佐藤基治を負かした中村智宗(ともむね)は、戦勝の褒美として伊達郡をもらい受けます。名字を中村から伊達に変えます。子孫の伊達朝宗(だてあさむね)が、この信達の地を治めます。中村智宗(ともむね)から五代目が、伊達政信(まさのぶ)です。伊達政信(まさのぶ)は古舘(ふるだて)に館を築きます。この家系は再び、伊達姓から、飯坂姓へ変名します。飯坂小次郎伊賀(いいざかこじろういが)と名のります。上(かみ)飯坂村と下(しも)飯坂村ができます。
■■■↓大鳥城関係■■■
1350年頃
「大鳥城展望台に関わる発掘調査結果について」 小林吉明
旧整地土の下層に、もう一層の整地土が確認されている。
汪 旧整地土上面に検出された以降群であり、中世陶器片41点のほか、白磁片2点、青磁片1点、建窯(けんよう?)の天目茶碗片1点、褐釉片3点等、14世紀前半と推定される中国製陶磁器類を伴い、14世紀前半の築造と推定される。
1354年(文和2年)……この年以降、古文書に「大鳥城」の文字はなく、放棄されたと考えられます。
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1450年〜1550年頃
期 旧整地土氓フ時期であり、同層から遺構と中世陶器が出土し、伴出陶器から15世紀後半から16世紀前半と推定される。
この頃に、人々は供養石碑(くようせきひ)を立てて仏にすがり、慈悲を求めました。現在も医王寺などに残されている多くの板碑(いたひ)がそれです。
1523年……伊達氏が信夫地方を統治しますが、「大鳥城」の記述は残されていません。
戦国時代
1578年からの堀切時代
1578年(天正6年)…現在の福井県から、梅山太郎左衛門治嘉(うめやまたろうざえもんはるよし)が飯坂に移住します。当時の赤川は、現在の八幡、湯町、湯沢、十綱町の下手を流れ、しばしば氾濫しました。彼がリーダーとなり、赤川上流の流れを変えて、摺上川に流れ込むようにします。功績を認められて、「堀切」の姓を許されます。現在の堀切邸跡地の初代となります。
※梅山太郎左衛門治嘉は、名字を持っていたので、武士だったと思われます。落ち武者だった可能性もあります。武士であろうと農民であろうと、よそ者が大規模な土木工事のリーダーになるまでには、面白いドラマがあったはずです。梅山の姓を、堀切に改めました。
1600年……関ヶ原の戦い
※伊達郡と信夫郡と米沢郡を合わせた30万国の領地は、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の領地でした。関ヶ原の戦いで上杉景勝は豊臣秀頼側についたため、それまでの120万国という領地を徳川幕府に召し上げられ、上記の30万国が割り当てられます。つまり、上杉景勝は自分の家臣の領地を自分の領地とさせられたのでした。景勝は自分の軍備を減らせば、完全に取りつぶされると予測して、5,000兵(+家族20,000人)を保持する対策を立てます。それが、開墾による増産でした。
江戸時代
西暦1647年(正保4年)……上杉景勝(うえすぎかげかつ)がこの地を治め、5,000人の武士を雇うために、開墾をすすめます。小川の水を取り入れた井野目堰(いのめぜき)、西根堰(にしねぜき)が引かれます。14の村ができていました。
※上杉家の開墾は、古川善兵衛に託されます。開拓地の租税は幕府に納めなくて良いという決まりを利用し、2年間で10万国の増産を実現します。計画は成功したかに見えました。
※上杉景勝が死去します。直系の息子のいない上杉家は、徳川幕府に領地を召し上げられるはずでした。ところが、景勝には「お三」という娘がおり、吉良上野介に嫁いでいました。その子を、上杉家の養子に迎えて体裁を施します。しかし徳川幕府は、30万国(+10万国)の相続を許さず、伊達郡と信夫郡と高畠郡の合計15万国を天領として召し上げます。せっかく10万国ふやしましたが、最終的には15万国(+10万国)しか残らず、開墾以前の30万国から5万国減って、25万国取りの上杉家となりました。
※古川善兵衛に責任はなかったのですが、結果に責任を感じ、切腹します。
※天領として召し上げられた15万国は、管理を堀田家にまかされます。幕末まで、飯坂を含む信夫郡と伊達郡と高畠は、藩地ではなく、飛び地となります。堀田時代が始まりました。
西暦1689年(元禄2年)5月……松尾芭蕉(まつおばしょう)と曽良(そら)が訪れます。鯖湖湯(さばこゆ)に入り、医王寺を「笈も太刀も五月にかざれ紙幟(おいもたちもさつきにかざれかみのぼり)」と詠みます。5年後にこの二人の旅行記は、「奥の細道」として出版されました。この頃の飯坂の宿泊料は、木賃10文、油代7文、むしろ代1文の合計18文だったと言われています。ちなみに、「奥の細道」は1冊2,000文で販売されました。
※「奥の細道」に「土座(どざ)にむしろをひきてあやしきしんかなり」という文章があります。飯坂を含む信夫郡の古文書には「土座」という言葉が出てきません。実は米沢で使われている言葉でした。芭蕉(あるいは曽良)は、上記の政治上の変化にも詳しかった、と考えられています。
赤川の中堤が改良され、用水が引かれます。現在の大鳥中学校→湯町→湯沢→十綱町→摺上川の水路で、大正時代まで利用されました。温泉は、透達湯(とうだゆ)、せんきの湯、天王寺の湯がありました。
1792年(寛政4年)……飯坂温泉の湯野に、三河国刈谷藩(みかわのくにかりやはん)の陣屋ができ、三河国にも飯坂温泉が紹介されたことでしょう。
西暦1815年(文化12年)……白河藩主の松平楽翁(まつだいらおう)が飯坂に来て、鯖湖のうたを書き残しました。
明治時代
明治6年……県庁が福島市にでき、飯坂は役人の保養地になります。盲人の伊達一(だていち)が、十綱の渡しに橋を架けて欲しいと県に願い出ます。十綱橋が摺上川に架かり、湯野と飯坂を繋ぎます。それまで東北地方には橋がなく、渡し船で渡河していました。十綱橋は東北初の橋です。温泉旅館が次々に建っていきます。
明治14年……旧国道13号線が開通します。現在の国道13号線の西側に、見え隠れするように、残っています。
明治15年……飯坂街道ができ、福島と飯坂が結ばれます。
明治20年……福島駅が完成します。
明治28年……国鉄の東北本線が開通し、伊達駅(旧長岡駅)ができ、飯坂温泉の表玄関となります。
明治41年……軽便列車(けいびんれっしゃ)が福島−伊達−湯野に開通します。終点の湯野に、十綱駅がありました。現在はありません。この時期に、飯坂の温泉にラジウムが含まれていることが判明し、飯坂の温泉卵はラジウム卵と呼ばれるようになります。
大正時代
大正13年……福島−飯坂の電車が開通します。終点は花水坂駅(はなみずざか)でしたが、昭和2年に、今の飯坂温泉駅まで延長されます。
昭和時代
昭和7年〜20年……温泉宿は国策に不要だとされ、細々と営業していました。昭和19年9月から、東京からの疎開児童1,697名を受け入れます。
昭和30年3月……飯坂町を中心にして2町4村が合併し、新しい飯坂町が誕生しました。
昭和34年……120軒の旅館が160万人をお泊めし、最盛期となります。
昭和39年……飯坂町は福島市に合併し、福島県福島市飯坂町となります。
平成時代
平成11年……宿泊客は100万人、旅館数は69軒となり、飯坂温泉は新たな動きを胎動させています。