■解説 その1■…本編の俵藤太(たわらとうた)とは、10世紀の栃木県の佐野にいた武士である藤原秀郷(ひでさと)の幼名です。940年の天慶の乱で、平将門(たいらのまさかど)を討ちました。その功により、下野(しもずけ)・武蔵の国司(県知事のような役職)に任命されます。その時代に、藤太湯(とうたゆ)が発見されたとされています。すでに、佐波来湯(=鯖湖湯)はありました。

●おらが湯 藤太湯伝説(とうたゆでんせつ)●
佐藤家伝承「天王寺、藤太湯物語」
語り手・佐藤権(さとうけん)71歳 絵と文・椎野健二郎
平成3年12月24日

 昔、昔な。信達平野(しんたちへいや)の湖がな、干上がって、そこんとこが湿地帯になってな……、大作山(だいさくやま)の麓を奥州街道(おうしゅうかいどう)が通っていたころの話しをおせっぺな。

 今でいうとな飯坂小学校のあたりからな、二丁(200m)くらい赤川(あかがわ)を上って行くとな! どんどん川幅が狭くなって、一番せまくなった所が「川崎」と言うんだ。そこん所になんとづない大蛇が川に横たってなア……橋のかわりになっていたんと!
 そこを通る村の人も旅の人もな、づない大蛇の姿を見るとまんず、ぶったまげちまって。しまいには、おっかなくなって誰も近よる人がいなくなっちまんだと。

 ところがある日。弓をもった立派な若者が通りかかり平気で大蛇の背中をふんでな! 川の向かい側に渡ってしまったんだと。ほうしたら……なんとパァーと大蛇が美しいお姫様に姿を変えたんだと! お侍さん ハイ! 「俵藤太と申します」と言いながら、ふりかって見ると年は二十あまりか? この世の人とは思えぬほどに妖しく耀くように美しい女が立っていた。

 藤太、「お目にかかった覚えはないが、貴女は誰ですか」と尋ねると、…………女はそばに歩みより……小声で「私をご存じないのはご尤っともです」……「赤川、川崎でお目にかかった大蛇なのです」
 藤太、「それではどうして姿を変えて訪ねてきたのか!」と聞こえたんだと。
 女、「私は日本の国がひらけはじめた、はるか昔から信達の湖に住んでいたのです。湖は七度も干上がっては、田や畑に変わりましたが、そのたびごとにうまく逃れて大作山の麓の『子守沢』に沢山の子供達と幸せにすごして来ました。ところが聖武天皇(756年)の御代から摺上川(すりかみがわ)のほとりに大百足(おおむかで)が現れ、『吉川』ぞいに『片倉山』を越えて、私の子供を食い荒らしに来るようになったのです。そのため、川は、私の子供の血で赤く染まり『赤川』と呼ばれております。それで、どうにかしてこの悪百足を退治したいと願っておりましたが、私達では力が及びません。これは、やはり器量のすぐれた方の力にすがる他ないと思いあのように大蛇の姿になってお待ちしていたわけです。」と涙を流して頼みました。
 藤太は、一部始終を黙って聞いていた。……もし事をし損じたなら、先祖の名折れ末代までの恥辱である、しかし神々の加護の下、日頃きたえた武術をもってのぞめば、かならずや道がひらかれると。覚悟をきめ「分かりました。今夜のうちにも百足を退治してみせましょう」と答えた。
 女は大層喜んで「三本の矢」をさしだしたんだと……「これは、私たちの血と涙が流れて沢となった『毒沢』で作った矢です、どうかこの矢で、あのにくい百足を仕止めて下さい。」と女はそう言うと、かき消すように消え去った。

 藤太はすぐさま身支度を整えました。
 先祖伝来の太刀をはき、五人張りの重藤の大弓を小脇に抱え十五束三伏もある大きな矢を三筋手にして「天王寺沼」の右手、寺山に向かった。

 夜になり「矢場」に立って「片倉山」を眺めると稲妻がひらめき生(なま)ぐさい風が大作山を吹きわたり、にわかに激しい雨がふりだした。
 片倉山の頂だちが、みるみるうちに千本の松明をともしたように明るくなり、山鳴りの音がごうごうと山を動かし谷をゆさぶった。天王寺雷様の襲来である。

 それでも藤太は少しも騒がず弓に矢をつがえ百足の近づくのをまった。百足は「穴原・吉川」の断崖をよじ登り大地をゆるがして迫ってくる。
 藤太は矢が丁度とどくころとみて、弓を力一パイ引きしぼり百足の眉間めがけて射た、しかし矢は難なくはじき返されてしまった。
 藤太は、第二の矢をつがい一心不乱に引きしぼって、ひょうと射放った。だがこの矢も踊り返り百足に突き刺さりはしなかった。

 藤太は進退きわまって最後の一本の矢を……”南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)”……と祈ったら……アラ不思議、貝がら山の岩場から天狗様が舞おりて……
”コレ、藤太、百足の目を狙え”
 藤太は神の加護、われにありと、弓を引きしぼりひょうと射た。矢はねらいたがわず百足の目に突きささった。
”その瞬間”天王寺雷さまのものすごい音も、ぴたりと鳴りやんでしまった。
 さては百足め息が絶えたか? と、その辺りを調べると百足は片倉山から「ムジナ山」にかけて長々と横たわっていた。

 次の日の朝、嵐がすぎ去った大作山の木々や緑は生き生きと生命を吹き返していた。色鮮やかな若草、季節の花、きのこ、蝶など生きとして生けるすべてのものに光の訪れをそそぎ岩から流れ落ちる滝はうれしげに踊るように流れている。
 女、「あなた様のおかげで、日頃の仇きを退治していただき、これほど嬉しい事はありません」と心から礼をのべ感謝のしるしにと、黄金千枚、うるし千杯、朱千杯をさしだしました。
 藤太、「この度のことは、武門の譽れ、我が身の面目、これ以上望むものはない」と。「贈り物は辞退したい」と言いました。
 女、このご恩はどうのようにて、お報いすればよいでしょう。大変勝手なことですが、麓の佐波来(さばこ)の里に、第12代景行(けいこう)天皇の御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)様が東征の折、病に伏し佐波来湯(さばこゆ=現在の鯖湖湯)に入浴したところ、たちまち平癒したといわれる霊泉があります。私が案内しますので、どうぞ……おいで下さいますようにと誘うのである。
 藤太、「日本武尊がご入浴なされた霊泉佐波来湯で百足の血でけがれた身体を洗うのは、あまりに恐れ多いことです」と断った。

 女は、ほとほとこまって故郷である龍宮城の乙姫様に相談した。
 ほうしたら乙姫様は、大作山の難儀を取りのぞいてくれたことを大そう喜んでナー、「佐波来湯の北隣りの泉で百足の血でよごれた衣類を洗い流しなさい」と啓示したんだと。
 藤太は再三再四の親切をことわるのも心ないことと思い快く承知して、言われた通り、泉でよごれた衣類を”そそいだところ”冷たい清水が、だんだんあたたかくなり、……、あつい温泉が湧いてきたんだと。

 藤太「いやー、不思議なことがあればあるもの」と。つぶやきながら、ゆったりと温泉につかり、昨夜来の激斗(げきとう)のつかれをいやしたんだって言うんだ。

 うんじゃな、おわり。

■解説 その2■…1125年、第10代鵬城主の佐藤師治(すえはる)が藤太湯を佐藤家専用の温泉にして、当座湯(とうざゆ)と名付けます。

■解説 その3■…藤太からの5代目に、今日の日本の姓で一般的な「佐藤」の氏祖である佐藤公清(きみきよ)が生まれています。

■解説 その4■…1189年に、当座湯が枯渇します。この時代に、佐藤公清からの6代目の佐藤基治(もとはる)がいます。佐藤基治は鵬城主で、医王寺にお墓があります。

■解説 その5■…1578年に、堀切家の主導で、赤川の流れが変えられます。そのせいか、堀切の地(おそらくは摺上川沿い)に温泉が湧き出ます。再び、当座湯と呼ばれました。

■解説 その6■…1804年、赤川がまたも氾濫し、現在の湯沢に温泉が出ます。上記の当座湯とは若干場所が異なるかもしれません。温泉が地面の下を透過して別の場所へ達して湧き出たので、透達湯(とうたつゆ)と呼ばれます。

■解説 その7■…1992年に、建物の老朽化のために透達湯は取り壊されました。その場所に、現在の鯖湖湯が建っています。1889年に建築された鯖湖湯は、30m離れた小さな公園に建っていました。いにしえの佐波来湯、藤太湯、当座湯、透達湯は、1992年に復元された今の鯖湖湯に受け継がれています。